久しぶりのブログ更新。
ブータンの農村で生活を始めて半年が経ってしまった。
このブログには書けていないけど、今の私生活も仕事も研究も、フィリピンでの隊員時代の延長上のようなものになっている。ときどき隊員の頃の自分の姿や出来事を思い出しては、今と当時を比べ、「そんなもんだよな」となることがある。今だから、当時の自分の至らなさに気がつけることも。
先日、地元で協力隊OVとしてお話をする機会を久しぶりにもらって、改めて隊員時代の自分に対して思う不満のようなものがあった。
今回は、隊員時代にやっておけばよかったと思うことを、①活動に関して、と、②生活に関して、の二つの観点からまとめたい。
個人的な後悔をつらつらと書くことになるだろうが、それを一言でまとめるならば、自分の中だけで満足していた、に尽きると思う。
隊員として活動を開始したのは23歳。それが今は28歳。
あの時は若かったなあ、と良い意味でも悪い意味でも振り返るのだけど、今思うあの時「こうしておけばよかった」は、今のブータンでの生活を通して、「草の根で活動をする上で実は大事なこと」と思ったこと、現在の自分への自戒でもある。
目次
要請に対する活動に関して
協力隊の活動は、「要請に忠実に従っていたら」基本的には何も問題を根本的に解決できないと考えていいと思う。
プロジェクトの基本である、「カネ・モノ・ヒト」がないから無理もない。
「ボランティア」という肩書き・呼称が象徴するように、隊員は配属先から使い勝手のいい一労働者でしかないと割り切ってしまった方が気が楽だった。
自分は無力な存在であり、配属先からは実はほとんど期待されていないと割り切ることで、逆に配属先との連携が見えてくるようにもなる。
協力隊として、もちろん活動に精一杯取り組むことは前提。
でも、「問題を解決すること」とは違う意義が、協力隊活動にはあると思う。
それでも、やっぱり何かを残したい。何か問題の解決に貢献したい。
そう考えるのが協力隊に来る人の大多数の性質でもある。そして、実際に過去の隊員を見ると、限定的ではあろうが、任国に多大な貢献をした人たちがいるのも確かだ。そんな人たちに憧れて隊員になった人も多い。自分も含めて。
では、結果論ではあるけど、「問題の解決方法を探るため」に、どのように活動を効果的に盛り上げればよかったのだろうか。
そして、活動によって何を任地に残せたのだろうか。
活動を打つ前に、任地の情報を徹底的に集めるべきだった
一番の後悔はこれ。
実際のところ協力隊は、意外と任地のことをわかっているようでわかっていない。自分もそうだった。自分が普通に活動する上で触れ合う人や直面する出来事を通して、わかったつもりになる。
つまりかなり個人的な経験を通してでしか任地のことを実は理解していない。自分の生活圏/安全圏の外になかなか出ない。
(それでも、途上国の田舎で生活をする日本人がそもそも少ないから、協力隊は任国のことをよく知っていると思われる)
任期の序盤にもっと多くの人にお話を聞いたり、資料を集めた上で活動を計画し、実施すればよかった。
当時の自分は、今と比較して知識や経験はなかったけど元気はあって失敗を恐れなかったので、目の前の気になったことに手当たり次第取り組むという感じだった。念入りに状況を把握した上で計画し、明確な目的を持った上で何かに取り組むということが少なかった。
それはPDCAではなくて、ひたすらDAを繰り返すような活動だったと思う。
カウンターパートや上司から依頼されたことから外れなかったし、同僚たちと価値観も共有できていたので、かれらは自分の活動をいつも支持してくれていた。働きやすい気持ちのいい職場だった。上司のことも尊敬していた。
でもそうした居心地の良さが逆に、自分を前のめりにしてしまって、足元の情報を固める時間をすっ飛ばしてしまう要因にもなった気がする。
例えば、派遣される前に目を通す要請書にも、実際の配属後の上司からも、「有機野菜のデモファームを作ってほしい」という要望があった。それに対して、自分は何も疑問を持たずに、ひたすら取り組んだ。
それはそれで、同僚らも満足してくれていたようではあったのだけど、今振り返ってみると、デモファームを作るのはいいとして、もしかしたらもっと村の人と協力する方法があったかもしれない、とか、もっと他の村に目を向けてみれば、より適した場所、面白い条件があったかもしれない、と疑う。
そもそも、「有機農業の普及」が最終目的なのならば、、デモファーム以外、または野菜栽培隊員として以外の方法もあったのではないか。
もちろん、活動している私は、「肌感覚」で成功を確信していた。その決断に迷いはなかった。
でも、当時の自分の判断を正当化するような情報は今ほとんどないのである。
任地のことは配属先の人がよく理解しているので、かれらの指示やアドバイスはかなり的確ではあるはずなのだけど、それを自分の目や耳で確かめ納得するというステップを怠っていた。そして、ブータンに来て思うけど、任地の人でも実は任地のことあんまり知らない、知ってても本当のことを言わない、なんてこともザラにある。
しかし直感的に同僚らの言うことに素直に取り組めたと言うことは、素晴らしいことでもあることは間違いない。
デモファームについてはほんの一例なのだけど、それと関係して、なんでもっと村の人と会話しなかったのだろう、と思う。きっと村の人ともっと話していれば、自分の活動が村の人にどう映っていたのか、もっとわかっていただろうに。
誰がどこにいるのか、各村の社会経済状況はどうか、村の人々は何を食べているのか、山間部では何を栽培しているのか、村ごとの文化に違いがあるのか。
こういったことに、もっと注意を払わなかったのはなぜだろう。
全ての住民に聞いて回ることはできなくとも、全ての村長に話を聞くことくらいはできたのではないか。
同僚たちにもっとアプローチすればよかった
仕事上で直接関わる同僚以外との接点が意外となかった。自分の活動に一緒に取り組んでくれる彼らとは嫌というほど一緒に時間を過ごしたのだけど、それ以外の人とは、同じオフィスにいながらもあまり仕事の話をしなかったように思う。
同僚たちは、自分が何か協力をお願いしたときは快く引き受けてくれた。彼女たちの仕事に一緒に行きたいと言えば、断られたことはなかった。彼女たちとのコミュニケーションの時間も好きだった。
でも、自分の活動や彼女たちの仕事の内容で連携する機会はほとんどつくることができなかった。
職場全体の意見を集めて一緒に活動を盛り上げるようなことができなかった。
私が活動で協働したのは、職場の上司と特に短期契約の職員たち。短期契約のかれらは、近い未来にいなくなってしまう可能性が高かった。それでもかれらはやる気があったので、私はそんなかれらとの連携を重視した。
わかってはいたけど、この自分の判断が、彼らが辞職してしまってから自分の横で活動を見てくれていた職員がいなくなってしまった理由になっている。
任地外との連携を考えるべきだった
自分の活動は任地の中で基本的に終始していた。
とは言っても、カウンターパートや上司を連れて、二泊三日で先進地域に視察に行ったこともあるし、個人的に任地(町)を出て、州内や隣の島に視察に行ったこともあった。でも、これらの視察は全て個人的な自己満足で終わってしまっていて、配属先と結びつけることはできていなかった。視察に行っては、自分が「わかった」だけで、終わってしまっていたのである。
任地内のリソースを頼りに、その中で実現可能性・続可能性等を考えていたのだけど、もっと外にも目を向け、さまざまなステークホルダーとの連携の方法を探る必要があった。自分がいなくなった後に外部との連携がうまく継続されるのかどうかはわからない。でも、限られたリソースのなかで未熟な自分が解決不可能な問題にもがくよりは、より環境が整って実績や知識が豊富な現地の専門家たちに頼る方法もあったのではないか。
帰国間近に、隣町で活動しているNGOに呼ばれて助けに行ったことがある。あんな活動をもっと拡大していく方法もあったのではないか。
任地の歴史についてもっと知るべきだった
日本に帰ってから博士課程に進学し、自分は今も任地のことを考えている。
あれはどういう文化なんだろう、あの地域の人とこの地域の人では宗派が違ったのは何故だろう、なんでこの地域だけ開発が進んでいたんだろう。
そんな、その場所にいたら当たり前に浮かんでくる疑問に、自分が答えを持っていないことに気がついた。自分がその地域に来る以前のことにあまり関心を持っていなかった。
あと、地域の政治背景についても無関心だったと、実は帰国間近になった頃に反省し始めた。
任期終了直前に町政が交代し、職場の人事にも影響が出た。同僚の何名かは自主的に辞めた。
自分が2年弱一緒に活動をしてきたスタッフたちがいなくなってしまい、これまでの活動はなんだったのだろうか、と思うことがあったのだけど、それは自分が自分の活動中のことにしか注意を払っていなかったからだ。
自分が任地に入った時、既に町の政治は50年近く同じ親族によって行われていた。だから、ところどころに汚職問題があったと、選挙後に聞いた。
そういえば、なんで50年間も彼らの政治が続き、それによってどう歪みが社会に出ていたのか、当時の自分は全く関心がなかった。
自分がいる間、または去った直後の活動とその持続可能性だけにしか意識が向いていなかったのだけど、それは、実は長い時間をかけて構築される「地域性」の上にあるもの。
もっと長い時間スケール(少なくとも数十年)で、任地の現在地を把握する必要があった。
生活面に関して
現地語をもう少し話せるようになるべきだった
農家と会話するために、日常会話とシンプルな質問&回答のやり取りができる程度までは現地語を勉強し練習した。
でも、話題がいつものルーティーンから外れると、一気に理解できなくなった。それでも基本的な会話はできているからいい、と怠けていたのである。あの語学力で満足していた自分が、恥ずかしい。
地域の人たちが本当はどんなことを考えているのか、それは彼らの言葉を通してでしかやはり理解できない。さらに当時の自分はJICAという肩書きを背をっていたので、なおさらのこと。それは、今のブータンでヒシヒシと感じることである。
任地にいたときは、言葉が住民の思考や文化を表しているという事実を軽んじていたと思う。
休日をもっと任地の人と過ごすべきだった
休日はカフェに行って勉強したり、任地周辺の友達と遊んだりすることが多かった。でも、カフェに行きすぎたなと思う。
一人の時間は、日常のパーソナルスペースが自分のものより狭い分、自分を落ち着かせて調子を取り戻すために必要だったけど、今となれば、もっと周辺の人と時間を過ごすことで、職場の外の人とのつながりを増やしておけばよかったと思う。
やっぱりなんだかんだで、自分にとって最大の2年間の宝物は、現地でつくった人脈である。家族のように大事にしてくれた家庭、上司の家族、いろいろと気遣いしてくれた友達、と、思い浮かぶ大事な人たちはいるのだけど、そんな大事な人たちとの関係は、すべてかれらの方からつくってくれたものだと感じている。
自分からもっといろんな人にアプローチして、相手の方から大事と思ってもらえるような人間関係を育む努力もできたのではないか。
最後に
これらは全て結果論。
自分のこうした当時を振り返った反省は、今も大学院生として活動を振り返り、当時の自分と対話し、今の自分を照射する必要があるから。
その対話はまだ少々続ける必要があるので、これからも何か新しく思いつくことがあれば、この記事に追記していこうと思う。
(下で協力隊をしながら大学院生であったことをまとめています。)
https://ecogreen-life.com/jocvxgraduatestudent
(こちらでは隊員時代の活動を基にした論文が掲載されています)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/asafas/22/1/22_1/_article/-char/ja/
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