センター試験での失敗が私を京大博士課程に導いた話(前編)

 

1990年から始まった大学入試センター試験が今年で最後となったらしい。
(受験を終えた全国の皆さん、お疲れ様でした)

30年間にわたって多くの大学受験生にとって避て通れなかった関所のような存在がセンター試験だったろう。

ある人は、センター試験の結果によって絶望の淵に追いやられたかもしれない。
またある人は、想像以上の高得点を取得し一生の自信または誇りのようなものになっているのではないだろうか。
そんな、特に国公立大学を目指した人たちにとって、ほろ苦くも決して甘くなかった高3のセンター試験対策の日々は、意味を持った特別な期間になっているのではないだろうか。

私もセンター試験経験者である。
現在京都大学大学院博士前期過程(修士課程)に在籍しているが、センター試験は7割も取れなかった。
2017年のセンター試験で涙を飲んだ多くの受験生の一人だった。
その年、もともと苦手だった国語の小説で出てきた「スピンスピン」が話題となったが、見事に一科目目の国語で私もスピンすることとなり、他の受験科目への闘志が一瞬で削がれたことを記憶している。そもそも気持ちが出来上がっていなかった。

今回の記事では、センター試験なんてたかがセンター試験で、その後の人生を決める何者でもないということを、若い人たちに伝えたい。受験で失敗しても、大丈夫だよ、ということを。

(書いてみたら例の如く長くなってしまったので、高校から大学入学を前編、大学生活から京大博士課程入学までを後編として二部に分けて記事にすることにした)

受験勉強に身が入らなかった高校生

高校では運動部に入っていた。
私がいた高校は文武両道を謳っていて、生徒は勉強に部活動に一生懸命なのが特色だった。
これまでにオリンピック選手や最も上手いと言われたサッカー日本代表選手も、そしてノーベル化学賞受賞者も輩出している。受験時の偏差値は50-60程度で、京大や東大合格者が毎年1or2名いればいい方ではないだろうか。普通科と特進クラスのようなものがあって、私は後者に属していたが、決してもともと「頭がいい」人の選択肢に入る学校ではなかった。
あくまでも部活と勉強を同時に頑張りたいというバイタリティに溢れた人たちに人気な学校だった。

私は中学ではサッカーをしていて、この強豪校でサッカーすることが一つの夢だったのだが、家庭の事情で部活にそこまで力を入れられないと判断し、その夢は叶わず、個人競技である陸上部に入部した。
個人競技ならチームでの練習に参加できなくても、自主練すれば仲間との差を埋められると思ったからだ。入学当初は陸上部か柔道部で悩んだが、陸上部に体験入部に行った時の先輩たちが素敵だったので入部をその場で決めた。

中学では勉強も部活もある程度できていてチヤホヤされていたのだが、高校ではそうはいかなかった。
部活での練習で疲れると毎日の課題がこなせなくなり、答えを写すような事もした。中学までしたことなかった授業での居眠りを抑えられないようになっていた。
高校入学当初から模試の成績は右肩下がり。
入学当初は得意だった数学も、数ⅢCに入ると数学なのに理解しようとせず記憶しようとしてしまった。理解することを放棄してしまった。部活の成績も思ったように伸びず、苦しかった。心の隙間を埋めるように女の子と遊ぶことばかりに注意がいっていた。
振り返ると、高校は挫折を経験し自分の力量の限界を見た3年間だった。
(高校のネタはまたたくさんあるので改めて書きたい。)

入学当初の進路希望調査では「京都大学農学部」と書いていた。最初はD判定くらいはもらった気がするが、それ以降はE判定から脱せなかった。2年生になって「筑波大学生命環境学群」を目指すようになったが、これもC判定だったものがだんだん難しいとなって、農工大や宇都宮大学、茨城大学の農学部なども視野に入れるようになっていった。
目標は成績に合わせて下げていかざるを得なかった。

家庭の経済状況から、私立大学に通うことは許されなかった。許されなかったというか、私が奨学金という莫大な借金をしてまで通う気にはならなかった。
そもそも高校の時点で地元の人に保証人になってもらいながら社会福祉協議会から借金をしていたので、大学で親からの仕送りを当てにすることはできないことは火を見るより明らかだった。
だから、国公立大学に絞られる私にとってセンター試験は避けては通れない関門で、同時に受験勉強が追いつかないと選択肢はどんどん狭まれていった。

地元の大学にだけは行きたくなかった

受験生をやっていたとき、この気持ちははっきりしていた。
県内の大学には通いたくない、通うくらいなら浪人する

その理由はいくつかあった。
まず県内の大学には農学部がなかった。もともと興味があったのは農学系のことで、それこそ農業の分野で国際協力に携わることを人生の目標としていたため、なんとなく「農」という文字の入っていない学部・学科に入る気にはなっていなかった。

もう一つの理由はあまり明確ではない。地元をあまり好きではなかったからだと思う。
大学からはなんとなく新天地で頑張りたかったし、そんなサバイバル感と自由な感じが大学生活の醍醐味のように想像していた。

県内の大学となると実家通いで大学のある中心部まで通学時間がかかる。
片道だけで、ドアトゥドアで1時間半はかかった。
夜は終電の時間を気にしなければならないし、朝は一限に間に合わせるためには7時過ぎに家を出なければならない。アルバイト先も大学と実家が離れていることと移動手段が限られていることで制限がかかった。
大学生にもなって、実家に帰る時間を気にするのもなんか馬鹿馬鹿しい気もしていた。

でもやっぱり、地元の大学に通いたくなかった真の理由は、なんとなくかっこ悪いような気がしていたからだと思う。自分はもっと違う、難関大学と言われるところを目指していたし行けると思っていた。
親が出た大学も有名大学だったので、昔から話に聞いていた大学生活に憧れの気持ちもあったのだと思う。

地元の大学に通うということは、自分にとって高校の延長線上のような気がしていたし、実際に通っている間も「大学生活は楽しい」なんて嘘でも言う気にならなかった

「身の丈に合ったところに入るのが幸せなんだ」

センター試験はずっこけた。
人生最大の失敗だったと言ってもいい。失敗というか、もともと対策もしっかりできていなかったので「受験」というものに対しての自分の根負けだったと言える。
模試や練習でしっかり点を取れていなかったので本番もうまくいくはずがなかった。

目標を下げに下げて考えていた地方国公立大学の農学部にどうにか滑り込めるかどうかといったギリギリの点数で、そのまま受験を続けるのか、それとも浪人するのか、悩み考えた期間が受験後の1週間だった。

気持ちはズシンと沈んでいて、二次試験の対策をする気にもなれなかった。
この時間は今でも忘れられない。
自分の進路希望の結論を出せず、担任や家族とは相談せずに自分の中では浪人する方に気持ちが傾いていた。

私の心境を読んだのだろう。
センター試験直後の学年主任の授業で名指しで怒られた。
周りの仲間たち(受験は団体戦とするあたりが、公立の“自称”進学校らしい)は頑張っている中、私が「もう浪人する」みたいな雰囲気を周りに醸し出していたのを見て、物凄い剣幕で怒鳴られた。

おい、Hiro、何沈んでんだ。自分の身の丈に合った大学に行くのが一番幸せなんだぞ


その時は反発の気持ちが強かった。
「身の丈に合ったなんて認めたくないしそもそも実力発揮なんてしていない」
「どこの大学に行けば幸せかなんて誰にもわからないし、それを押し付けないで欲しい」と思った気がする。

それから進路をどうしようかもう少し地に足をつけて前向きに考えることにした。
逃げていた現実に目を向けて、自分で納得のいく進路選択を考えたかった。

何がいいのか?大学のネームバリューに拘って何か捨てるものもある気がしたし、ネームバリューを気にする自分もなんだかちっぽけな気がした。そんなんではこれからの人生を切り開いていけない。

その結果導いた自分なりの答えが、「地元の国立大学に行く」だった。

行きたくなかった地元大学を選択した理由

現実を見た時、地方に行けば自分のセンターの点でも入れる大学はまだあった。
でも敢えて、ずっと最も避けたかった進路を採ることにした。
それは、地元の国立大学に通うこと、つまり高校生活のような学生生活をあと4年間続けること。
同時に編入という制度がある事も知った。ずっと行きたかった筑波大学には3年次編入制度があった。
「地元の大学にまず進学して、もしやっぱり違うと思ったら編入試験を受けてみよう」と思うようにした。

思いきり悩んで決断し、二次試験対策を全くしていなかった化学IIや物理IIの勉強をそれから始めた(二次試験は数学と英語のみで行けるところを希望していたから、二次試験対策に手を出していなかった)。

もともと私立大学に行けない私は、「大学受験」というおそらく一生に一回のライフイベントは自分の県内で終わった。センター試験の会場は出願した大学だったから、受験会場は一箇所しか経験していない。

なぜ地元にしたのか、自分に言い聞かせた理由は何点かある。

貧困から脱せられる

大学に実家から通えば貯金できると思った。貧乏から脱せられると思った。
実家で生活すれば、当然ながら食費や住居費などはかからない。
(しかし、それでも二十歳をすぎてからは自分の食費分は家に納めるようにした)

これまでアルバイトというものをしたことがなかった私、大学ではアルバイトも頑張ろうと思っていた。
自分で稼げるなんてワクワクする。
親からの支援は期待できない、というかしてもらえないので、自分で何かしたいのなら働くしかなかったし、純粋に新しい経験として楽しそうだった。きっと多くの大学新入生も思っていることだと思う。

高校を卒業して大学に入学するまでの間に塾講師のアルバイトを始めた。
入学してから先輩の紹介やアドバイスを聞いてからバイト先を決めるなんて考えず、すぐにでも、少しでも時給の良いところで稼ぎ始めたかった。
それから多い時は3つ掛け持ちしながら、卒業まで常に何かしらのアルバイトは続けた。

経験を積める

これが自分を納得させた最大の理由。
上に書いた事と連動するが、貯めたお金で経験を買えると思った。

行きたかった大学に行ったら、おそらくそこに入ったことに満足して、生活費を稼ぐためにバイトしながら暇を作っては友達と余暇を過ごして、なんてして4年間終わってしまう気がするが、行きたくもない大学に行ってお金を貯められるのなら、貯金したお金で行きたかった大学ではできない経験をしてやろうと思った。

実際京大も「入った後は何もしない」と揶揄される学生が多いらしい(知らんけど)。

一人暮らしをしていたら、それはそれで楽しかったとは思う。
けど留学に行くとか、イベントに積極的に申し込むとか、サークルを新しく作るとか、国内外を旅するとか、そんな発想にはならなかった気がする。
それよりも、アルバイトと高度な専門的な勉強と研究生活に追われ、こなす毎日になっていたろう。
それはそれでまた良いのだと思う。

家族との時間を過ごせる

私の父はもう高齢だったから、家を出ることに対する不安がずっと心の中にあった。
一人の妹がいるが、妹も高校生活を本当に歯を食いしばりながら頑張っていた。
思春期で父親ともしょっちゅうぶつかっていた。かろうじて間に入れるのが僕しかいなかった。

父に親孝行のようなことをしたことなかったし、このままもし実家を出て親に何かあったらと考えたら、それは大きな後悔が残る気がした。
これは逆に自分の弱みのような気もする。
自分が一方的にそう思っているだけかもしれない。
家族と過ごす時間の意義は、フィリピンに行く時より強く感じたのだが、私はその時、まだ実家にいられることをプラスに、幸せなことと考えることにした。
受験勉強をしていた時は新天地での自由な生活に憧れたのだけど、受験でこけてみると家族で過ごせる時間は貴重なんだって思うなんてご都合主義なのかもしれない。
(ご都合主義は大切!)

実家の畑仕事を手伝える

「農」と国際協力で人生歩むのなら、農業のことを実学としても知っておくことが肝要だと、そのとき気がついた。それまでは嫌々手伝っていた家業だったが、大学生活をしながら同時に農作業を手伝えることは実はすごく恵まれている条件のように思えた。
それこそ、一般的な農学を学んでいる人にはできない経験に違いなかった。差をつけられると思った。
実家のエリアが農業地域だったので、アルバイトで他の農家さんの農作業を手伝わせてもらったこともある。

この決断のおかげで、私はJICA海外協力隊の面接の場で「昨日も畑仕事をしていて今虫刺されが痒くてしょうがない」と言えた。

「農」の前に幅広く環境を学べる

私が在籍した学科は、環境科学科というところだった。
文字通り環境に関連したことは広く学べるところだった。環境問題についてや、水について、大気について、土壌について、気象について、生態系について、または環境に絡んだ社会問題についてなど。基礎的な統計学もあったし、基礎ゼミというテーマを決めた研究発表会みたいなゼミ活動もあった。

今だから言えることだけど、通った地元の大学は良い大学だった。それは授業の内容もそうだし、大学の雰囲気もそうだし、だいたいが顔見知りになるくらいの学生数も良かった。

農学はどちらかというと狭く深くなイメージがあったので、そちらに進むのは大学院からで良いだろうと思うようにした。農の前に、農業が営まれるもっと大きい自然環境について学べれば、それはそれでまた広さと深みが増すのかな〜なんて安易に考えるようにした。ここでもご都合主義。

今となっては環境科学科に進学して良かったと思っている。
小さいモノを見る前に大きな視野を持つことの重要性は私生活にでも言える。
その基礎中の基礎を大学で学んだ気がする。
当時の自分の判断は間違っていなかったと強く思える。

まとめ

センター試験は自分との闘いであることは間違いない。
けど、勝ち戦はあっても負け戦は存在しないのではないかと思う。
それはこれから先名称が変わる共通一次試験でも言えることではないだろうか。

大学入試なんてあくまでも通過儀礼で、どこの大学に入るかなんて対して問題じゃない。入った大学で何をするかの方がよっぽど重要になる。
だから、ネームバリューに惹かれた大学受験は、人生長く見てみたときにあまり意味を持っていないと思う。

何の為に、何しに大学に行くか、その理由はなんであれ、その理由があれば、大学生活はどこにいても色濃く、実り多いものになるというのが私の意見。

その気持ちがあれば、「底辺大学」と言われるような大学を卒業しても、「有名大学」と言われる大学を出た学生と相撲をとっても負けない。


続編では、絶対に通いたくないと思っていた地元の国立大学から自然と今在籍している京都大学大学院への道が開けて行ったことを書きたいと思う。
私が求めたのではなく、大学生活を送る中で運命が重なり、自然と開けた道だった。本当にやりたいことがあれば、自然と機会の方から寄ってくることを実感した。

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