センター試験での失敗が私を京大博士課程に導いた話(後編)

 

こんにちは。
今日は前回の記事「センター試験での失敗が私を京大博士課程に導いた話」の後編です。
(以下のリンクから前編へ飛べます)

https://ecogreen-life.com/centerexam-1

前編では、高校受験から大学受験の失敗と、地元の地方国立大学に入学するまでを振り返りました。
この記事では、大学入学から自然と導かれた高校時代憧れの京大院への入学と、全く予想もしていなかった同課程の博士課程への進学までを一気に振り返りたいと思います。

「付加価値」型学部生活

授業

当時私は、大学側からしたら「お利口な」学生だったと思います。
授業にはほぼ100%出席しました。

それもそのはずで、なんでもありません。

前記事にも書きましたが、地元の大学に通うということは、気持ち的には高校生活の延長のようなものでした。つまり、授業は出て当たり前なんです。
振り返ってみても、地元から通っている学生の方がちゃんと学校に来ていたように思います。
(それがよいことかどうかは別です)

私は卒業時GPA平均3.5でした。
これは後になって実感したことですが、授業にしっかり出てそれなりの成績を取っておくことは、その真なる目的の他に二つの意味で重要です。
一つは、大学院入試の際の審査対象になること、もう一つは奨学金や授業料免除申請の際の審査対象になることです(詳しいことは知りませんが、海外の大学院の入試の場合日本以上にGPAは重要な評価基準になるようです)。高いGPAを持っておけば、授業料免除対象になったり、返済不要型の奨学金をもらえたりします

これは家庭の経済状況もかなり反映されているのですが、授業料は1学年時に半額払っただけで、それ以降は現在までの6年間、免除され続けています。
給付型の奨学金もこれまで総額100万円ほど支給されました。
この額、当然ながら学生にとっては大きいです。
今後もあと100万円支給される予定です。さらに進学が決まり、これから獲れるところにはアプライしていくつもりです(博士課程の学生にとっては、給付型の奨学金をもらえるかどうかは死活問題になりますので、みんな必死に申請します)。

大学院入試と奨学金や授業料免除に限らず、例えば交換留学や募集人数に上限があるイベントなどの学内・学外選抜が行われる場合ももちろん、GPAが物差しになります。

アクティブに学外のことを頑張りたいのであれば、学内のことを頑張った方が、コスパがいい

これは私の考えです(個人的には授業に出ない「意識高い系」の学生には説得力を感じません。これは蛇足ですが)。

授業は面白いものばかりではもちろんありません。
「これ何年前に作った資料なの?」と思わせるものをただ使いまわしている怠慢な授業、学生に伝えることなんて毛頭も頭にない一方的な講義、そんなのも実際たくさんです。

それでも、学べる環境に身を置けていることは恵まれたことです。
「授業が面白くない」それだけで終わってしまうのなら、大学は行く場所ではないでしょう。
まずは、それをどう面白くするか、を自分なりにアレンジしてみることが大事だと思います。

JICA主催の国際協力系イベントへの参加

在学中にいずれもJICA主催の国際協力系イベントに複数回参加しました。
その中でも印象的だったのが、全国の大学生20名とインドに二週間行き、現地調査を経験できたプログラムでした。
同期の他の20名はラオスへ行っていました。
(当時の同期が記事を書いていますので共有します)

 

大学では環境科学を専攻していたので、「国際協力」というワードに授業で出会うことはありません。
これは地方大学の短所かもしれませんね。一般教養科目でも取れる授業の幅が限られてしまいます。

だからこそ、学外に出て積極的に自分で学ぶ機会を作る必要がありました。
学外の機会への参加を通して初めて、「やっぱり私はこういうことをしたい」と思えたり、「これは違うな」と感じられる訳です。

地方大学にいると、井の中の蛙状態、深刻化すれば茹でガエルになりがちですが、全国・世界には面白い学生、驚嘆するほど優秀な学生が腐る程います。大きな大学に希望通り合格できた人たちは日々貴重なイベントの雨の中です。そういった人と会わなければ、置いていかれてしまう気がしました。
刺激をもらうとエネルギーに変わりますし、自分の不出来さに気づかされます。

初めて参加したJICA主催の市谷でのイベントでは、自分の英語の出来なさに驚き、初海外で単身フィリピンへの語学留学に行くことにつながりました。

外部のイベントに参加するとは別に、ほんの少しだけ東京に本部を置く国際協力系学生団体にも関わっていたので、そちら関係の学生からも面白い情報に晒されていました。

地方大学に行ったからこそ、様々な機会を通じて関心分野について学びを深め、仲間に出会うために外に出る努力が必要でした。

フィリピン留学

今でこそ格安英語語学留学のメインストリームになったフィリピン留学ですが、私が1年のとき周りに経験者はまだほとんどいませんでした。
海外に行ったことがなかった私が留学を決断したのは、上で述べたように英語、特に話すことへの苦手意識を早めに解消したかったからです。

他の大学生と参加したイベントで外国の人と議論する機会があっても、英語が喉までは出ても言葉となって外に出てこなかったのが悔しかったです。間違えるのを恐れてしまってました。
私にとって、「話して伝えること」の難しさを早い段階で実感すること、そしてそれなりの恥をかけたのは幸いでした。

1年の夏にフィリピン留学というものを知り、その年の春休みに初海外で一人渡比しました。
2ヶ月で留学費用30万くらいだった気がします。バイトして貯めました。

初めての海外経験は誰にとっても特別な思い出になるのかもしれません。
「国際協力」の分野に興味があっても、「貧困」「途上国」「東南アジア」「国際協力」みたいな漠然とした言葉を実体験に基づいてイメージできなかった私。
そんな私が初めてまだ途上国と言われるフィリピンに行ったのです。

これが人生を変える転機となってしまいました。

留学中に色々な人に出会いました。
社会人を辞めてきた人もたくさんいました。世界一周に行く人or行った人にも会いました。
バリバリ海外経験を積んでいる方々にも出会いました。
そういった人たちの話を聞くのがとても楽しかったです。

留学中に得たものは、英語の実力ではなかったです(この点は後悔してます)。
それよりも、自分の人生に主体的で積極的な人たちとの出会い、そして初めて「東南アジア感」を体感できたことが自分としては大きかったです。

しかしここでは、フィリピンに対して「なんとかしてあげたい」という思いにはならなかったです。単純に、もっと他の東南アジアを自分の五感で感じてみたいと思うようになりました。

「海外」への興味がくすぐられ、次の旅へと誘ったのです。

 

フィリピン留学の後、フィリピンには4回(?)渡航したり、他の東南アジア諸国をバクパックで2ヶ月間周遊したりしました。
この時には、「国際協力」よりも「旅」に魅せられていた、というよりも旅をしている自分に酔っていたのかもしれません
なんでもいいのですが、私の放浪癖はこの当時についたものです。


その他にも、学部の研究室のプロジェクトに肖ってネパール・カトマンズに2度渡航させていただいたり、トルコにも行かせていただきました(こういった機会が地方大学でもしあるのであれば、学生数が少ない分、門は割と広く開かれていると思うのでチャンスです)。
地方大学でもプロジェクトを持っていれば、どんどん外へ行けます!

ここでも、旅先で見たものや感じたことが私の関心をさらに(東南)アジアへ向けました。

特に記憶に残っているのが、何度目かの渡航でフィリピンを歩いた時です。
世界遺産になっているバナウエの棚田を見た時、心のどこかでずっと燻っていた火が大きな炎となった気がしました
東南アジア地域の農業を取り巻く農村がどうなっているのか持続的な農業なのか、家畜との共生はどう営まれているのだろうか、在来の技術にはどんなものがあるのだろうか、そんな技術から日本は何か学べるのではないだろうか、みたいな感じです。
当時の私には、カラバオ(フィリピンの水牛)と人間の協働が生み出す農村風景がとても美しく見えたのです。

画像に含まれている可能性があるもの:山、空、屋外、自然
バナウエの世界遺産の棚田

旅サークル設立とある先生との出会い

国内も何度かヒッチハイク旅したり、その勢いで仲間を募って旅サークルを大学で一から創設しました。
東南アジアを一人で歩き回り、他人と関わりながら一歩一歩進む「旅」から、何かを挑戦する楽しさのようなものを意識するようになっていました。
そして、同じような仲間を作ってそれを共有し合いたいと思うようになっていきました。

当時、TABIPPOとかもできてきて、旅団体とか世界一周コンテストとか、そんなのがブームになっていたと思います。私は特にそれらの団体とつながりがあるわけでも、触発されたわけでもありませんが、同じようなことを旅を通して感じていた同世代の人は日本中にいたようです。

画像に含まれている可能性があるもの:3人
サークルの活動で甲府⇄勝浦をヒッチハイクで旅した。サークルつながりの仲間は一生もの。

おそらく読者の方はきっと疑問に思ったと思います。
このサークルが大学院への進路となんの関係があるのかと。

実はこのサークルの顧問を引き受けてくれた先生とその奥様(当時は結婚されていなかった)が私の大学院受験に当たって背中を押してくれました。
二人とも地域は違いますが、南米研究をされています。

私の関心、つまり東南アジアの農業、それも眠っている在来の技術を掘り起こし現地の方に光が当たるような形で、そしてそれを日本で応用できるようなスタンスで見てみたいということを伝えたら、今在籍している研究科と今の指導教官を教えてくれました。

この、サークルの顧問を引き受けてくれた先生にはサークル設立以前より可愛がってもらっていました。同じ学科の先生でもプライベートで食事に行くなんてなかったのに、この先生は何度も学生を食事やイベントに誘ってくれました。
付き合いをしていく中で、先生も私の進路を応援してくれるようになっていったのだと思います。
(その先生とは、在学生に向けて「旅することと学ぶこと」と題した教養の授業を開いたり、卒業後は在校生に向けた講演に呼んでいただいたりしました。

この先生との出会いが、単なる私の心の中の関心事を、「学んでみたい」というステップ、具体的な行動に結び付けてくれたと言えます。

ある先輩隊員と協力隊制度との出会い

私は、大学院への入試と同時に青年海外協力隊に志願しました。
「協力隊×大学院生」という進路を選んだ理由は下の記事にまとめています。

https://ecogreen-life.com/jocvxgraduatestudent

最終的にフィリピンでの協力隊としての活動を、農村開発の視点から、アクション・リサーチとして学位論文になんとかまとめたのですが、これは結果的にそうなっただけで、活動期間はそんなことほとんど意識しておらず、活動自体にただただ夢中でした。
頭の中にはいつも「帰国したら大学院に戻らなきゃ」といった焦りがありましたが、現地でデータ集めに熱中するようなことはしていません。

協力隊活動はあくまでも外部者によるボランティアです。
「現地の方々にどう見られるか」を最優先に考えなければいけない中、いわゆる「崇高な研究」をすることは場違いなものにもなってしまいます。

実は、私のこの進路には、協力隊のロールモデルのような方がいらっしゃいます。
その方は、茨城県の常陸太田市というところで有機農業をされている伊藤さんご夫婦です。
ご夫婦の著書には「参加型農村開発とNGOプロジェクト 村づくり国際協力の実践から」(明石書店)があります。

ご夫婦は、協力隊活動後、あの有名なJVCで国際協力の現場に長年携わられ、今では茨城で有機農業をしつつ大学の講師などをされています。野菜やお米をお客さんに直送されています。

二度ご自宅に遊びにいかせていただき、畑作業を一緒にさせていただきました。
お二人がとてもキラキラしていて素敵で、私も「こんな人生を歩みたい」と感銘を受け、大好きになりました。

このご夫婦に、新卒という形で協力隊に行くという進路を最初に提案されたのでした。
それまでは、協力隊制度のことは知っていても、自分にはできないと思っていました。

伊藤さんご夫婦とご自宅前で記念撮影
昼食は畑で採れた野菜。この後昼寝をしてまた畑に出た。

突然決まったブータンへの道

私はこの春から博士課程に進学しますが、これまでの人生で自分がまさか博士課程に進学するとは全く予期していませんでした。
学部から修士課程に進学したかった理由は上に書いた通り、自分の東南アジア(と日本)に向いた興味関心をもう少し突き詰めて勉強したい(というよりも考えたい)と思ったからで、その目的は修士号を取れば同時に達成されると考えていたからです。
また、昔から重箱の隅をつつくような研究には興味を持てません。

協力隊活動の終盤は、任地での環境も影響して自分は研究者には向いていないと思うようになりました。
研究と呼べることはできなかったので、自然と自信がなくなっていったのだと思います。
帰国し修士論文をなんとかまとめられたら休学して就活をしようと考えていました。
当時付き合っていた彼女ともそのような話をし、共に歩む人生設計も真剣に考えていました。

全てのプランが崩れたのは帰国前後の1ヶ月です。
まず、結婚を真剣に考えていたその相手と別れることになりました。これは自分にとってはビッグイベントでした。
これは断言できますが、もし別れなければ博士課程への進学はしなかったです。


さらに、帰国して大学院で活動報告をしたのですが、そのときの聴衆(先生たち)の反応が意外にも良く、「迫力がある発表だった」とかなり前向きな評価をされました。ここで、初めて自分のやってきた協力隊活動が研究としても扱えることを実感し、喉に詰まっていたものが溶けたような感じがしました

なんと、その場の指導教官の鶴の一声で私の進路は一瞬で変わってしまいました。

(指導教官)
「Hiroくん、(発表)良かったよ〜〜。あのな、ありがたいことにJICAの草の根技術協力が採択されたんだよ。フィリピンでやったことと同じようなことをブータンでやってみないか?お金も出るし、そこで博士論文書いちゃったらええやん。フィリピンと比較のような形でまとめたら良いやん。博士行ったらええよ。」

私はこういった話に流されやすいということと、指導教官がかなり適当にこういったことを口にするということを2年間の渡航でほとんど忘れていたので、そのまま真に受け、家族に相談し一週間後にはかなり楽観的に博士課程へ進学することに決めました。
修士論文を1文字も書いていないのに博士課程への進学を決めてしまいました。

決断させた最大の理由は、協力隊でやったようなことをもう一度できるということに魅力を感じたからです。フィリピンでの協力隊活動を通して、「有機農業×農村開発」の可能性を強く実感しました。
実感はしても、それをもう一度実証することなんてまず普通はできません。
協力隊活動の2年間という期間はあまりにも短いし、組織力も財力もないために「実感」したことを確かめてみることはかなり実現可能性の低いことになります。
そのチャンスがこんなにも早く自分の目の前に現れたので、私はもう少し個人的に追求しチャレンジしたいと思いました。
正直博士号なんて二の次三の次で、特に魅力を感じません。

少しずつ文献を読むようにしていますが、ブータンという国は非常に面白い国のようです。
これは何かの運命だと私は思います。

お金がないのに博士課程へ行く

さて、勉強するにもお金がかかります。
大学に行くのも当然、莫大なお金がかかりますよね。

「大学行くお金がない」
「大学院へ行きたいけどお金がないから働かなきゃ」
「博士課程へ行きたいけどお金がない」

これらは良く聞く話です。私もずっとそう思っていました。

ここで私は一つのことを言いたいです。

それは、荒っぽい言い方ですが、
「本気で学びたいのなら、お金はなんとかなるかもしれない」ということです。
前回の記事でも書きましたが、私が「学費」を親に依存したのは中学までです。

私の家庭は父子家庭の専業農家で、紛れもない貧乏家庭でした。
私はそれを幼いながら知っていたので、親に物をねだった記憶がありません。
家の手伝いをするために学校を早退したことも何度もあります(それで中学は皆勤を逃しました)。

まさに父と私と妹、家族三人助け合って生活していました。
習い事やサッカー選手などの将来の夢なども諦めてきました。
中学から高校に上がる時、担任の先生がいくつかの奨学金制度を教えてくれました。

これまで、大学と大学院ではほぼ学費免除の対象になっています。
日本学生支援機構で無利子の奨学金を学部時点から今まで借りてきています(これは紛れもない借金で、今は総額300万円以上になっています)。当然、何かしらのアルバイトは継続的にやってきました。
給付型の奨学金もこれまで何度かもらい、今でも毎月もらっています。
ありがたいです。

修士課程では私の生活費と学費はJICAの協力隊の手当てでした。
それが、博士課程ではJICAの草の根事業のプロジェクト費用です。
(めでたく、2021年4月から学術振興会特別研究員として給料をもらえることが決まりました! 2022.2.8 追記)

このように、私の学生生活は全て人様のおかげなんです。

博士課程までくれば、周辺の人の多くは私と同じようにもう親のもとを離れ、経済的に困窮しています
私と同様にアルバイトや奨学金、日本学術振興会などに頼る形になっています。
それでもなんとかやっていけています。

まとめ

今回は、「センター試験の出来は気にしなくて良い」という趣旨の記事の後編でした。
前回の記事と今回の記事をまとめると、何かを熱望するのなら、たくさんの人が助けてくれ、「道は自ずと開ける」かもしれない、ということです。
センター試験の結果程度で夢や進路を諦めてしまうのであれば、その夢は最初から大したことではないのかもしれません。また別の、熱中できるものができるはずです。

どんな学校に行っても、どんな組織に属しても、そこでしか学べないものはあります。
良い具合にアレンジして、将来の設計図のワンピースにできれば、あなただけの強みに変わっていきます。

偉そうなことを書きましたが、私は何かに成功した人間でもなんでもありません。
これまでは運に恵まれてきただけで、もっともっと努力が必要な超凡人です。
今回と前回の記事を通して、一緒に頑張る仲間が一人でも増えたら嬉しいです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です