こんにちは。
今私は高知市にいる。
実はここに、私が協力隊として2年間活動した任地で45年前に私と同様に野菜隊員として活動された大大大先輩がおられる。
今回の高知旅の最大の目的はその方に初めてお目にかかることだった。
その方Yさんは今68歳。
偶然だが、私と同い年の時にフィリピンのアンティケ州に派遣されていた。
今回の記事では、その方と会って私が勝手に感じた45年前の先輩の「協力隊」への思い、それと私が思ったことを書きたいと思う。
45年の年月が任地にもたらしたもの
45年前、つまり1975年前後の日本はどんな状態だったか。
年表をその頃まで遡って要所だけ本当に簡単に整理してみた。
1970年には大阪万博があった。
72年には札幌で冬のオリンピックが開催された。
73年には第一次石油危機、その影響もあってか74年には戦後初めてのマイナス成長を記録し、高度経済成長は一応幕を閉じた。
78年に成田空港が開港し、日本の空の玄関口となった。
つまり、Yさんが日本を出た時、日本は戦後復興の波に乗り、経済イケイケドンドンで奇跡の成長を遂げていた時だったと言える。
海外旅行をする人が増えてきたのもちょうどその頃のようだ。
(当時は船旅が主流だった)
そんな、社会は「経済的豊かさ」にまっしぐらで、黙って会社勤めしていればドンドンお金持ちになれた時代の中で、知らない異国に行ってボランティア活動をしようとした隊員たちは、どんな心持ちで日本を出ることを決断したのだろうか。
当たり前だが、その頃と比べて日本は大きく変わった。
今は海外旅行なんて何も珍しいものではない。
成長は頭打ちになり、景気は低迷中で誰もが自分の老後の心配をしなければいけなくなった。
「成熟社会」なんて呼ばれるが、そこには様々な社会問題も含意されている。
45年という時間の開きが日本を変えた。
フィリピンの任地はどう変わったのか、気になっていた。
Yさんが大切にアルバムに保管していた当時の写真を見せてもらった。
驚いたのは、Yさんの顔を僕の顔に置き換えれば、まるでつい3ヶ月前の私になるようだったことだ。
それどころか、上の写真にあるような農産物を運べるトラックなんてこの間はなかった。
私はバイクで運ぶしか無かった。
州都にあった運動場はおそらく建設されたばかりなのだろう、私がサッカーしていた今のグランドに比べるとはるかに綺麗でまるで現在の日本のどこかの球技場のようではないか。
こんなに観客が席を埋めているのも見たことがない。
とても活気立っているのが写真から伝わってくる。
渋滞が酷いマニラのビル群もこの当時建てられたものばかりで、ほとんどメンテナンスをされていないため今では街がたいそう古めかしく見える。
食卓にあるビールはパッケージから今のものと変わらない。ご飯に対しておかず一品なのも、食事を手で食べるのも今でもよくあることだ。
彼らが着ている洋服も今となんら変化ない。
実は、当時のフィリピンは他の東南アジア諸国と比べて豊かだった。
アジアの開発を担う金融機関であるADBもマニラにあるが、その理由は、60年代のフィリピンが他の国よりも豊かな国とされていたからと聞いたことがある。
今それがシンガポールやタイに抜かれている。
フィリピンという国(特に農村部)は何も変わっていないんじゃないか?
そう思わずにいられなかった。
それよりもこの写真に驚かされた。
今こんな立派な野菜畑は任地にない。
青々とした葉菜が綺麗に整備された畑でしっかり育っていた。
田んぼもしっかり管理されているように見受けられる。
しかし、州都にはショッピングモールが建設され、道路の拡張工事が後を絶たない。
都市郊外は確かに開発の波が及んでいる。
45年前の先輩隊員を知ったきっかけ
Yさんの存在を初めて知ったのは私が現地に派遣されてからのこと。
任地の町長に挨拶に行った際、「私が子どもの頃にも日本人のボランティアがいてね…」と話してくれた。
その時、同地域で活動する隊員として私は2代目だったことを知った。
このことはJICAにも知らされていなかった。
それからさらに偶然が重なることになった。
Yさんはフィリピンに派遣される前に農業研修を高知県で受けており、そのときの先生であり、且つ現在はベンゲット州と高知県の農業交流に尽力されている石川清彦さんが私のことをネット上で見つけてくれ、連絡してきてくれたのである。
また、石川さんは日本に農業実習生として来日したことがあるYさんのホストファミリーとも家族ぐるみの付き合いで、アンティケ州には複数回訪問されていた。
なんと私の活動中にも娘さんと訪問してくれ、農業では欠かせない温度計を届けてくれた。
そんな感じでとても親しみやすく人間愛に溢れた石川さんに甘え、今回、Yさんにのところへ案内していただいたのである。
これまで青年海外協力隊としてのべ4万人以上が派遣されており、フィリピンだけでも1600人以上が活躍してきた。
自分と同じ活動地で活動された45年前の先輩と繋がるには運命的な助けがない限り難しいだろう。
どうしても会ってみたくなった。
大戦と協力隊
Yさんにどうしても訊いてみたいことがあった。
それは、太平洋戦争の遺産を活動中に感じることはあったか、ということ。
なぜなら、戦後73年が経った今でも任地では戦争の尾を引いているのを私は感じていたから。
任地の山奥にも日本兵は進軍しており、「ここまでは日本兵は来なかったからこの地域に隠れていたんだよ」といいうような話を何度か聞いたことがあった。
日本兵との2世や3世とも会ったことがある。
地域で顔が薄ければほぼ日本人との関係の子である。
「親戚が大量に殺されたかrた日本人とは握手をしたくない」と言われたこともある。
Yさんが活動されたのは戦後25年そこそこ。戦争の遺産が目についたに違いない。
Yさんは、多くは語らなかったが、「戦争のことが会話に上がることはしょっちゅうあった」と話してくれた。
飲み会になると地域のおじさんたちが決まって話したようだ。
「日本兵は赤子を宙に放り投げて銃剣で突き刺した」
「日本兵は現地の女性に性的暴力を振るい、陰部に焼かれた金属を押し付けた」
「フィリピン人であればスパイだと思え、という指示に従った日本兵は多くの無関係な民間人を後ろから射殺した」
こんなことが飲み会の場で頻繁に話題に上がっていたらしい。
フィリピン人は飲むのが好きだから何度も話題に上がったのだろう。
私ならお酒を飲む気分ではなくなってしまう。
フィリピンにはもう50年以上にわたって協力隊が派遣されてきた。昔の隊員は現地の人から石を投げつけられながら活動をしていたと聞く。
今となっては日本とフィリピンは良好な深い関係が築かれているが、その背景にはフィリピン人からしてみれば大変理不尽な侵略と、キリノ大統領による過去に類を見ない日本人の戦争犯罪人に対する恩赦があった。
それから草の根・国家レベルで多くの日本人がフィリピンの発展のために活動してきた。
他の侵略行為の対象となった国々とは違った友好関係がフィリピンとの間にはある。
なぜだろうか。
これらの概略を踏まえた上でフィリピンの人と交流することが私は大切だと思っている。
フィリピン人の若者でも、祖父や祖母から戦争の話を聞いて育った方が多くいる。彼らが日本人と相対するとき、彼らの脳裏にはその当時の話が浮かぶことも普通のことだ。
両国の関係の上にあっていまこうして多くの人が渡航できて交流ができているのに、そのことを何も知らないのは自戒も含めて恥ずかしい気がする。
「協力隊なんて遊びだ」
「協力隊の活動はどうでしたか?」私は訊いてみた。
「あんなの遊びだよ」
私がもし今同じ質問を受けたらこうは答えないだろうと思う。
私は遊んでいたつもりは無かったし、なんなら「どうすれば要請を達成できるのか」「何がこの人たちのためになるのか」我ながら真剣に考えながら活動していたつもりだった。
そして、「協力隊活動は遊びだった」なんて言ったら納税と言う形でこの事業を支えている日本の方々の反感を買いそうである。
Yさんは高知県でいまも現役で農業をされている。
婿養子として高知県に移住された。
最近建てられた立派な新築の家に奥さんと暮らされているが、お子さんたちは別の場所にいらっしゃるようだ。
Yさんの言う「遊び」は何を意味しているのだろう。
これまで他にも会ったことがあるが、「協力隊なんて遊びさ」と言う昔のOVは多い気がする。
「遊び」には、当時の日本と世界の社会情勢と、OVの方々のその後の人生などが反映されているのだろうが、私たちが一般的に口に出す「遊び」のような軽い言葉ではない気がしている。
ホイシンガ曰く、人間とは「ホモ・ルーデンス=遊ぶ人」らしい。人間の歴史は遊びから発展してきたとも言われるように、人間にとって遊びは欠かすことのできない要素である。
私にわかるのは、彼らがいう「遊び」は生半可ではなく本気の「遊び」だったことくらいだ。
私も子どもの頃はガムシャラに、自由に、場所的時間的に限定的な環境で本気で友達と遊んだものだ。
今考えてみればあれは遊びだったけど、親に(言われたことはないが)「勉強しないで遊んでるんじゃない!」なんて言われれば当時だったら反発したに違いない。
Yさんが見せてくれた協力隊当時のアルバムは、リビングのテレビ台の下にまとめられていた。立派な大きなアルバム2冊分だった。
中には当時の硬貨や紙幣、政府からもらった各書類やパスポート、新聞記事、切手、そしてたくさんの写真たちがいつでも誰にでも見せられるように整理されていた。お気に入りの美人なフィリピーナの写真もあった。
写真の外には写っている人の名前が一人ひとりメモされていた。自分の本になっていた。
このような形でしっかり整理している隊員は最近少ないのではないだろうか。
ホストファミリーの方が結婚された際には渡比し祝福し3年前にも任地にお酒を飲むために行ってきたらしい。
中途半端な「遊び」だったのなら、こんなことはしないだろう。
協力隊としての自覚
派遣前訓練なんかで「協力隊としての自覚を持ちましょう」なんて言われた。
あれはなんだったのか。
協力隊は公人だ、ということだった。
つまり公務員と同じようにお国のために尽くしましょう、日本に迷惑をかけることはやめましょう、ということなのだろう。
日本の代表として派遣されていることに間違いないのだけど、誰も志願しなくなると日本政府も困ってしまう。公人であるし、同時に一つの駒に過ぎない。
唐突だが、私は、「自覚」は、終わってから身につくもののような気がする。
だから、隊員としての自覚は、任期が終わって帰国してからなんとなく意識するようになるものの気がしてならない。
それも、特に隊員仲間で集まったときなんかに育まれるのではないだろうか。帰国してから、同じOVなんかと話していると、「ああ、自分もこの人と同じ隊員だったんだな」「そういえばそんなことを活動中に考えたな」なんて思い出し、初めて隊員だった自分を客観的に意識するようになるからだ。
自分が隊員である間はその期間がいかに特殊なものかわからない。
私は今回ほど「隊員としての自覚」を認識したことはなかった。
45年間という時を経て、23歳だった私が派遣された。
そして先輩と後輩がこうして顔を合わせ、他の誰とも共有ができない話に花が咲いた。
誰も45年後を意識して活動なんてしていない。
考えても自分が帰国後の1.2年のことだと思う。
何がどこでどう繋がるのかは神様だけが知っている。
Yさんは私の任地ではなく州都の州知事のオフィスに配属だったが、畑作りを私の任地でするように命じられた。
当該町で誰とも会話していないと言っていたが、町長はしっかりYさんのことを覚えていた。町長の中では、Yさんのイメージが私のイメージの元となっていたことも考えられる。
点と点はどこかで必ず繋がるようだ。
私が滞在した2年間がどう繋がるのか、目に見えない点かもしれないけど考えるとワクワクすると同時に、「自覚」が足りていなかったかなと反省した。
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